項目 | 内容 |
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1751年(寛延4年) | 高鍋藩「主秋月種美」の「次男」として誕生(母方の祖母が4代藩主「綱憲公」の娘) |
1760年(宝暦10年) | 10歳の時に、8代藩主「重定公」の娘「幸姫」の婿養子となる |
1764年(明和元年) | 14歳の頃から「細井平洲」に師事し、君主としての知識を磨き始める。 |
1767年(明和4年) | 17歳の時に、米沢藩15万石の「9代目藩主」となる |
1785年(天明5年) | 35歳で隠居。家督を「上杉冶広」に譲り、隠居後も政務を補佐していく。 |
1791年(寛政3年) |
寛三の改革(寛政の改革) 藩費を半減し、残る半分を借金返済に向け、16年で完済するという思い切った計画「寛三の改革(寛政の改革)」を実行 |
1794年(寛政6年) |
米沢の北部に総延長32kmにおよぶ農業用水「黒井堰」工事に着手。 翌年に完成。 現在も一部が現存する。 |
1799年(寛政11年) |
飯豊山に導水トンネルを掘って、
玉川の水を水量の少ない置賜の白川に引水するという大工事に取り組みました。
20年後の「1818年(文政元年)」に竣工。 置賜の田畑が潤った。 |
1822年(文政5年) | 1822年(文政5年)3月12日に、体調を崩し「72歳」で死去。 |
藩政 | 内容 |
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大倹約令の実施 |
明和4年(1767年)に、「12か条」の「大倹約令」を発令。 強い反対もあったが、率先して節約を行い、 江戸藩邸での藩主の生活費を半分以下の「約7分の2」とし、 日常の食事は、「一汁一菜」、 普段着は、「木綿」、 奥女中は、50人から9人に。 |
農業開発と籍田の礼 |
「大倹約令」と並行して実施された「農業開発」。 「1772年(安永元年)」に、中国の例にならい、 藩主が自ら田を耕す「籍田の礼」を行い、 農業の「大切さ」「尊さ」を自身で示した。 以後、 「家臣」を含め、藩全体で、「荒地開発」「堤防修築」などを次々に実施。 |
殖産興業 |
「米沢藩」の特産品であった「青苧」を使用し、 現在の「米沢織」となる「機織り」「絹織物」を 「武士の婦子女」などに内職として習得させた。 「桑の栽培」「養蚕」を行い「絹織物」を根付かせた。 出羽の「米沢織」として全国的に知られるようになり、 現在の「米沢織」として、「米沢」の「主要産業」の一つになっている。 その他に、 「製塩」「製紙」「製陶」 などの産業も行っていて、 現在も残っている。 |
藩校「興譲館」の創設 |
「学問は国を治めるための根元」という考えのもと、 「1776年(安永5年)」に、城下の元篭町に藩校「興譲館」を創設。 文字の読み書きだけでなく、 現実の「政治」「経済」に役立つ「実学」を重視。 有能な家臣の子弟から「20名」を選抜し、無料で入館させた。 「興譲館」からは、現在に至るまで多くの偉人が輩出されているらしい。 |
天明の飢餓 |
天明3年から続いた凶作「天明の飢餓」は、 「米沢藩」にも影響を与え、 「米価1俵」が、「平年の2倍~5倍」にもなる中、 新潟や酒田から「米1万俵」を買い上げ「領民」に分け与えたそう。 「米沢藩」の「藩財政」は、大きな打撃を受けた。 その後、 日頃から「代用食」となる「動植物」の「調査」「研究」が盛んに行われ、 飢餓救済の手引書「かてもの」の発行した。 内容には、「草木果実」の「約80種類」の「特徴」「調理法」や、 「食料の保存法」「味噌の製造法」「魚や肉の調理法」 などについて詳しく書かれていたと言われている。 飢餓救済の手引書「かてもの」は、 評判を呼び、 藩の内外へと広く伝わっていったとのこと。 「米沢」の「御当地料理」が幅広いのは、 この飢餓救済の手引書「かてもの」の影響と言われている。 |