「米沢城(よねざわじょう)」は、
現在の「山形県米沢市丸の内」にある
「出羽国置賜郡」に、
「1238年」の「鎌倉時代」に築城された
日本のお城。
「2017年」には「続日本100名城」に選定されている。
現在の「山形県米沢市」の
ほぼ中心に位置している場所にある。
戦国時代の後期には、
「伊達家」の本拠地が置かれ、
戦国武将として知られる
「伊達政宗」の「出生の地(城)」でもある。
江戸時代に入ると、
「米沢藩」の藩庁が置かれ、
「上杉家」が統治するようになり居住していた。
その頃には、
有名な戦国武将「上杉謙信」は死去しているので、
「上杉謙信」は死去以後の「上杉家」との「ゆかり」はある。
米沢城の歴史は、
鎌倉時代から始まっており、
鎌倉時代中期「1238年(暦仁元年)」に、
鎌倉幕府の重臣「大江広元」の次男「長井時広」が、
「出羽国置賜郡長井郷」の「地頭」として赴任し、
「米沢城」を築城したと推定されている。
されたと推定されている。
以後、
「長井家」による統治が「150年」近く続いたとされる。
「室町時代」に入り、
室町時代初期の
「1380年(天授6年)」「1403年(応永9年)」「1413年(応永20年)」など
時期には諸説あるが、
「伊達宗遠」に侵略され、「伊達家」の統治へと変わった。
「伊達家」の支配は、
以後、「安土桃山時代」まで続いた。
「1548年(天文17年)」に、
「伊達稙宗」と息子「晴宗」の父子の対立「天文の乱」により、
を経て、「晴宗」が、本拠地を「桑折西山城」から「米沢城」に移し、
その後、「伊達家」の本拠地として「米沢城」が使用され続けた。
「1591年(天正19年)」に、
「伊達政宗」は、
勝手に「黒川城」を攻め落とした「合津攻略」により、
「豊臣秀吉」の反感を買い、
「豊臣秀吉」の命により
「米沢城」から「岩出山城(58万石)」に移ることとなった。
「伊達家」の代わりに、
「米沢城」は、
会津に封ぜられた「蒲生氏郷」の統治となり、
重臣「蒲生郷安」が、蒲生家で最大となる「米沢城主(7万石)」となった。
「1597年(慶長2年)」に、
「蒲生氏郷」の子「秀行」は、「下野国宇都宮」に移封され、
「会津」には越後国より120万石で「上杉景勝」が入封、
「米沢城主」には上杉家重臣「直江兼続」が置かれた。
「1600年(慶長5年)」に、
「豊臣秀吉」が死去し、
「上杉家」は「直江兼続」を総大将として、
「徳川家」との戦いに挑んだ。
その結果、
「上杉家」は「120万石」から
「置賜地方」と「陸奥国伊達郡「信夫郡」の「30万石(実高51万石)」に減封され
「米沢城」を居城とすることとなった。
以後、
「米沢城」は、
「明治維新」まで
米沢藩「上杉家」の「居城」となった。
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