「一生に一度は善光寺参り」という言葉もある「善光寺」。
長野県長野市に位置していて、
「善光寺如来」とも言われる
「一光三尊阿弥陀如来(いっこうさんぞんあみだにょらい)」
を御本尊としていて、
創建して1400年の歴史を持っている。
山号は、「定額山」(じょうがくさん)。
御本尊の「一光三尊阿弥陀如来」は、
一つの光背の中に、
中央に「阿弥陀如来」、
両脇に「観世音菩薩」「勢至菩薩」
の「三尊」を配置した様式で「善光寺式阿弥陀三尊像」と呼ばれているそうです。
654年(白雉5年)より、
「絶対秘仏」となっていて、一般には全く公開されていないとのこと。
「善光寺」は、
特定の宗派にも属さない無宗派のお寺であり、
全ての人を受け入れる寺として、
広く知られていました。
現在、
お寺としての運営は、
「大勧進(だいかんじん)」を本坊とする「天台宗」
「大本願(だいほんがん)」を本坊とする「浄土宗」
の両宗派によって行われているそうです。
山内にある
「天台宗」の「大勧進」と「25院」
「浄土宗」の「大本願」と「14坊」
によって「護持」「運営」しているとのこと。
「善光寺」の創建期は、
正確にはわかっていないそうだが、
御本尊の「一光三尊阿弥陀如来」は、
諸説あるそうですが、
552年(欽明天皇13年)に、
インドから朝鮮半島の「百済国」へと渡り、
仏教の伝来のために、「百済」から日本へ伝来した仏像で、
日本最古の仏像と言われています。
その後、
新しい「仏教」を受け入れるかの時代の最中に、
仏教を受け入れないという「廃仏派」の「物部氏」により、
「難波の堀江」に捨てられたとのこと。
その後、「本田善光(ほんだよしみつ)」という
信濃国国司の従者に拾われ、
今の長野県飯田市である「信濃の国」に持ち帰り、
「小山善光寺」から信濃の「善光寺(元善光寺)」に移り、
次に、現在の「善光寺(信州善光寺)」の場所に、
642年(皇極天皇元年)に遷座したと伝えられている。
644年(皇極天皇三年)に、
「善光寺」が造営されたことから、
現在の「善光寺」の歴史が始まったとされています。
「善光寺」の名称は、
「本田善光(ほんだよしみつ)」名前が由来となっているそうです。
8世紀頃には、
「善光寺」の御本尊「一光三尊阿弥陀如来」が、
「日本最古の霊仏」として京の都にも知られていたと、
平安後期にあたる12世紀後半に記された「伊呂波字類抄(いろはじるいしょう)」に
記されていたそうです。
戦国時代には、
戦国武将「武田信玄」により、
1555年(弘治元年)に、
御本尊「一光三尊阿弥陀如来」を始め、
お坊さんまで、建物を除く「善光寺」のほぼ全てを、
「甲府」へと写し、「善光寺(甲斐善光寺)」とした歴史があります。
その後、「織田家」「徳川家」「豊臣家」へと
御本尊「一光三尊阿弥陀如来」は移っていたが、
「豊臣秀吉」がなくなる前に、
夢に「善光寺如来」様が現れ、
「信州の地」に戻りたいと告げられてことから、
1598年(慶長3年)に、
40年の時を超え、
現在の「善光寺」となる「信州善光寺」へと戻られたとのことです。
江戸時代になり、
多くの人が「善光寺」を参拝し、
「一生に一度は善光寺参り」という言葉ができるほどの
人気となったと言われています。
「念仏を唱えて一心に祈る者は性別・身分を問わず、誰であっても極楽浄土に導いて下さる」
という「無差別平等」の救済を説くじんであることから、
女性の参拝も多かったと言われています。
現在では、
1400年以上の長い歴史を持つ寺院となり、
年間700万人を越える人々が参拝に訪れているそうです。
2010年(平成22年)には、
「ダライ・ラマ法王14世」が訪れ、
世界平和を祈ると共に「砂曼荼羅」の開眼をされ、
寄贈された「仏像」と共に、史料館に保管されているそうです。
見学できるのかは、公式WEBなどをご確認ください。
Address : 〒380-0851 長野県長野市長野元善町元善町491
Address : 〒583-0033 大阪府藤井寺市小山1丁目16−39 善光寺
Address : 〒395-0001 長野県飯田市座光寺2638
Address : 〒400-0806 山梨県甲府市善光寺3丁目36−1
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