「上高地」は、
長野県松本市に位置する
標高約1500mの高さに位置する
長野県西部の飛騨山脈南部の梓川上流の山岳景勝地。
もともとの名称は、「神垣内」という感じ表記だった場所らしい。
「神垣内」というのは、
「穂高神社」の祭神「穂高見命(ほたかみのみこと)」が穂高岳に降臨し、
「穂高神社 奥宮」と「明神池」で祀られていることに由来していたそうです。
「温泉」もあり、「穂高連峰」「槍ヶ岳」の登山基地にもなっている。
綺麗な自然にあふれたエリアで、
手付かずの自然が多く残り、大自然の宝庫と呼ばれ、
山岳リゾートとして人気。
多くの「動植物」が生息し、
自然や水の美しさが際立ちます。
「上高地」でしか見ることができない風景が待っています。
「中部山岳国立公園」の一部でもあり、
国の文化財(特別名勝・特別天然記念物)に指定されている。
一般の人が訪れるようになったのは、
昭和に入ってからですが、
今では、年間120万人の人が訪れているそうです。
「上高地」周辺の山に、
最初に上ったと言われているのは、
1835年頃に「槍ヶ岳」に登った
富山を拠点としていた僧侶「播隆上人(ばんりゅうじょうにん)」。
登山というより、修行のための登山だったようです。
明治前は、「上高地」に出入りしていたのは、
林業の関係者ばかりでしたが、
明治になり、
雑誌などのメディアで取り上げられ始めると、
「上高地」周辺は、
人気の山岳リゾートの道を歩むようになりました。
そのきっかけとなったのは、
明治政府が近代化を進める中で、多くの外国人技師を雇い、
その一人の英国人技師「ウィリアム・ガウランド」という人が、
1877年(明治10年)の夏に、「槍ヶ岳」に登り、
その様子を雑誌に掲載した際に、「Japan Alps」と紹介したことだそうです。
「Japan Alps」という言葉は、「日本アルプス」の語源になったとされています。
日本人で最初に登ったのは、
「鵜殿正雄」という登山家。
「前穂高岳」を地元安曇村生まれの猟師「上條嘉門次」と一緒に登ったそうです。
その後、明治の中期にかけ、
多くの人が登山に訪れ始め、
「島々~徳本峠」「明神~槍ヶ岳」などの登山道が整備されていったそうです。
このころから、一般の人も訪れるようになったそうです。
「上高地」が知られるようになったのは、
英国人宣教師「W・ウェストン」が、
1896年(明治29年)に出版した自らの著書「日本アルプス登山と探検」で、
自らが訪れた「上高地」「穂高連峰」「槍ヶ岳」を賞賛したことで、
世界的に知られるようになったそうです。
英国人宣教師「W・ウェストン」は、「日本近代登山の父」とも呼ばれているそうです。
山の案内人として同行した地元安曇村生まれの猟師「上條嘉門次」も、
「上高地」の歴史に功績を残した人物として語られていました。
英国人宣教師「W・ウェストン」の石碑は、
現在でも「上高地」にあります。
1915年(大正4年)に、
「焼岳」が、大噴火し、「大正池」ができました。
「焼岳」の大爆発により、
流れ出た土石流が「梓川」をせき止めてしまい、
行き場のなくなった水が溜まり、池を形成したそうです。
昭和初期になると、
文豪「芥川龍之介」によって、
「上高地」を題材にした小説「河童」が出版されたり、
昭和天皇の実弟「秩父宮殿下」が、
「上高地」から「奥穂高岳」「槍ヶ岳」へと縦走したりと、
更なる注目が集まるようになった。
国の「名称」「天然記念物」にも指定され、
初の山岳リゾートホテルとして、現在の「上高地帝国ホテル」も開業しています。
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