日光山の修行場だった「古峯神社」
「古峯神社」は、
「日光山(二荒山神社・輪王寺)」の開山の祖「勝道上人」が、
「日光山(二荒山神社・輪王寺)」の開山する前に、
「約3年」に渡り修行をした場所であり、
「日光山の起源」とも言われている場所。
Address : 〒322-0101 栃木県鹿沼市草久3027
広大な日本庭園「古峯園」は、
関東有数の庭園として知られる。
とても綺麗で広い庭園なので、
「古峯神社」を参拝で訪れたら、
必ず寄っておきたい場所。
四季折々の違う顔を見せてくれる日本庭園。
御祭神の使い「天狗」の御利益があることでも知られ、
「古峯神社」の「社」には、
「天狗の面」「扁額」「威儀物(火ばし、下駄、わらじ、天狗人形)」
などが、
たくさん掲げられている。
そのほとんどが、
「参拝者」からの「心願成就」のお礼に奉納されたものだそうです。
詳しくは、
下記をご参照ください。
「古峯神社」とは
栃木県鹿沼市草久(くさぎゅう)にある
「古峯神社(こぶじんじゃ・こみねじんじゃ)」は、
「日本武尊(やまとたける)」を御祭神とし、
「天狗」が御祭神の使いとしていて、
「天狗の社」として、
「天狗」にゆかりの深い神社として知られている。
「天狗」の「御朱印」でも知られている神社。
「神仏一体」の時代には、
日光修験の道場として使用されていたらしい。
「古峯神社」周辺の信仰が厚く、
「豊作」「村内安全」の神として親しまれているそう。
名前の「古峯神社(こぶじんじゃ・こみねじんじゃ)」は、
神社が鎮座する「大芦川源流」の一帯が、
「古峯ヶ原(こぶがはら)」と呼ばれており、
その名前から
「古峯神社(こぶじんじゃ・こみねじんじゃ)」となり、
「こみねさん」「こぶがはらさま」とも呼ばれている。
歴史は、
1300年以上あると言われており、
正確な創建した時期はわかっていないらしい。
創始者は、
「藤原隼人」という
京都から移住してきた人らしい。
「日本武尊」に仕えた「家臣」という説があり、
「日本武尊」が東征の折に着用した
「服の片袖」を「御神体」にしていたとのこと。
明治期には失われていたとされ、現在は伝承されているのみ。
栃木県鹿沼市での
「石原」を家名とした「官石原家」の「祖先」とのこと。
「古峯神社」の「基本情報」
項目 | 内容 |
名称 | 古峯神社 |
読み方 | こぶじんじゃ・こみねじんじゃ |
御祭神 |
日本武尊(やまとたける)
|
御祭神の使い | 天狗 |
御利益 | 「豊作」「村内安全」の神 |
創建 | 1300年以上前 |
創始者 | 藤原隼人 |
御神体 |
「日本武尊」が東征の折に着用した「服の片袖」を「御神体」にしていたが、
明治期には失われていたとされ、現在は伝承されているのみ。
|
面積 | 約500ヘクタール(500町歩) |
標高 | 約700m |
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御祭神「日本武尊(やまとたける)」とは
御祭神の「日本武尊(やまとたける)」は、
第12代「景行天皇」の「皇子」で、
別名に、
・小碓尊(オウスノミコト)
・倭男具那命(ヤマトオグナノミコト)
という名前もある。
「古峯神社」で祀られているのは、
「日本武尊(やまとたける)」の家臣と言われている「藤原隼人」が、
京都から「古峯が原」の地に移住をし、
その際に、
「日本武尊」が東征の際に着用した
「服の片袖」を「御神体」にして、
「古峯神社」を創建したのが始まり。
と言われているそう。
御神体「服の片袖」は、
明治期には失われていたとされ、現在は伝承されているのみ。
「藤原隼人」は、
今の地の「石原」を家名とした
「官石原家」の祖先とのことです。
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「古峯神社」と「日光山」
「古峯神社」は、
「日光山(二荒山神社・輪王寺)」の開山の祖「勝道上人」が、
「古峯ヶ原深山巴」の宿で、3年間の修行を行った後、
「782年(天応2年)」に、「男体山」に登り、
「輪王寺」の起源となる「四本竜寺」を開山したと言われている。
故に、
「古峯が原」は、「日光発祥の地」とも言われている。
古くから「山岳信仰の霊地」であった。
この頃には「古峯神社」が存在していたのかもしれないが、
正式な記述は残っていないらしい。
「神仏一体」の時代には、
「日光山」全体の「26院80坊」の「僧侶」は、
「古峯ヶ原」で修業をするのが、習わしであったそう。
「日光山」から「古峯神社」への「40km」ほどの道のりである
「日光修験道〈華供峯〉」は、「日光山」の重要な修行となっていたとのこと。
日光にあった「金剛童子(日光において峰中本尊)」の像を「日本武尊」とともに祀り、
「金剛峯権現(こんごうみねごんげん)」と呼んでいたと言われている。
明治時代の初期に行われた「神仏分離」によって、
「古峯神社」から「仏具」が撤去されると同時に、
「金剛童子像」は日光に還仏したとのこと。
祖先「石原隼人」が祀った「日本武尊(やまとたける)」のみを
「御祭神」として、現在の「古峯神社」となった。
「1966年(昭和41年)」に、
「古峯神社」と「日光山興雲律院」の共催により、
「華供峯」が「巴祭」として復興されているらしい。
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「古峯神社」の「御神徳」
「日本武尊(やまとたける)」の御神徳は、
「焼津の原(現在の静岡県)」での「火難」を逃れたことにより、
「火防の神」として、全国で絶大なる信仰を受けるようになった。
また、
「走水海(現在の静岡県から千葉県にかけての一帯の海)」での、
「海神の怒り」を鎮めたという話から、
「海上安全」「大漁満足」「五穀豊穣」の「神」として、
「農村」「漁村」の人々より大きな信仰も集めている。
「人智人力」の及ばない話~、
「古峯の大神」には、「御神威」があるとされ、
「国家安泰」「家内安全」「商売繁盛」「交通安全」「当病平癒」「身体健全」
などの「御神徳」があるとされている。
総ての「開運」「除災」「心願成就」の神として祀られるようになり、
「関東随一」の稀な霊山として、
「古峯神社」が人々の信仰を集めている。
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「古峯信仰」とは
「古峯信仰」とは、
・「火伏(火防)」の神
・「豊作」「家内安全」「村内安全」などの神
を祀る信仰のこと。
「下野神社沿革史」によると、
「1190年 - 1199年(建久年間)」に、
「福島県那須郡」の村で、
「雀」による「稲作被害」で困っていた時に、
村人の夢に、「白衣の翁」が現れ、
「古峯の大神」への参拝を告げられたとのこと。
夢に従い、
村の代表者が、「古峯の大神」へ参拝し、
「神符」を持ち帰えった所、
困っていた「災い」がなくなったと言われている。
それから、
「古峯信仰」が始まったと言われているらしい。
「古峰ヶ原講」「古峯講」と呼ばれる
「古峯信仰」のグループは、
現在も、全国に「2万グループ」ほど存在しているらしい。
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「古峯神社」と「天狗」
「古峯神社」では、
「天狗」は「御祭神の使い」とされていて、
「災難」が降りかかった時には、
「天狗」が、その「災難」を取り除いてくれる。
と言われている。
「厄除削除」「開運」の偉大なる「御神徳」を持っていると言われている。
「古峯神社」の「社」には、
「天狗の面」「扁額」「威儀物(火ばし、下駄、わらじ、天狗人形)」
などが、
たくさん掲げられている。
そのほとんどが、
「参拝者」からの「心願成就」のお礼に奉納されたものだそうです。
顔が赤く、鼻の長い天狗が「大天狗」、
黒いクチバシを持つ天狗を「烏天狗(からすてんぐ)」
という。
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「古峯神社」の「天狗」の「御朱印」
「古峯神社」の「御朱印」には、
御祭神「古峯大神(日本武尊(やまとたける)」の「御使い」である
「天狗」を描いた「御朱印」が多く用意されている。
訪れた時には、
「9種類」ぐらいの「天狗」の「御朱印」が用意されていた。
種類が多いので、
「書置き」でのお渡しで、
「御朱印帳」への「直書き」は、
「絵柄」などの制限がありました。
待ち時間も長くなるようで、
参拝者が多い場合は、
「書置き」の対応になるそうです。
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「古峯神社」の「古峯園」
「古峯神社」にある日本庭園「古峯園(こほうえん)」は、
とても広く、
とても綺麗な日本庭園。
「古峯神社」を参拝したときは、
必ず訪れた方が良い場所。
岩城亘太郎「岩城亘太郎」氏による作庭の「廻遊式日本庭園」。
「大芦川」から綺麗な水を引き、
山々に囲まれた起伏のある地形を生かし、
「約3年」の歳月をかけて完成された庭園。
その広さは、
「敷地面積:約9.9万平方メートル(3万坪)」と凄い広さ。
関東屈指の「日本庭園」としても知られているらしい。
「新緑」「紅葉」の季節が綺麗なのはもちろん、
春の「梅」から始まり、
「櫻」「山吹」「つつじ」「しゃくなげ」「さつき」「花菖蒲」
「あじさい」「萩」「あせび」「いちい」「かえで」「赤松」
などの四季に応じて、風情を感じることが出来る日本庭園となっている。
「芽吹き」から「秋の紅葉」「雪景色」まで、
一年を通して魅力的な景色を眺めることができるそう。
「古峯園(こほうえん)」の「基本情報」
項目 | 内容 |
開園時間 |
・9:00~17:00
・9:00~16:00(冬期)
|
休園日 |
不定休
|
入園料 |
・大人500円
・小人200円
|
所要時間 |
一周:約30分程~
|
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「古峯神社」への「地図」
「古峯神社」へは、
「鹿沼市」の市街地から、
「大芦川」沿いをの道路を
ずっと上がっていくと、右側にある。
知らないと、
絶対に通らない道だと思う。
「古峯神社」の存在を知って、
訪れようとするというのは、
何かしらの運命なのかもしれないと、
思わせるような道。
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