涅槃門 |
「瑞鳳殿」の正面門にある階段の手前にある「涅槃門」。 「涅槃」は、 「煩悩」を取り去った悟りの境地となる状態を意味している。 広い意味では、「死」の意味にもなる。 「瑞鳳殿」の「涅槃門」は、 樹齢数百年の「青森檜葉」を用いて再建された。 正面扉上部の蟇股には「瑞獣「麒麟」」、 左右の妻飾には「牡丹と唐獅子」、 焼失前と同様の豪華な「飾り彫刻」が刻まれている。 | |
拝殿 |
「拝殿」は、「涅槃門」をくぐって、 階段を上がった所にある。 「拝殿」は、 「拝礼」のために整えられた施設で、 焼失前の「拝殿」は、「瑞鳳殿」の床面と同じ高さで、 「瑞鳳殿」の「正面扉」を開くと、 内部に安置されている「伊達政宗公」の「御木像」を拝礼することが出来たといわれている。 現在の「拝殿」は、「瑞鳳殿」がよく見えるよう簡略化されているもの。 | |
殉死者供養塔(宝篋印塔) |
「伊達政宗」の死去後、 「伊達政宗」を追って、 「切腹」し「自害」したものの「霊塔」。 「直臣15人」と「その家士5人」が殉死。 達政宗公が亡くなった 江戸時代の初期ごろでは、 死んだ主君のあとを追い、 切腹するという「追腹」が多く行われいたとのこと。 「伊達政宗公」も多くの家臣に慕われており、 「忠臣は二君に仕えず」といった当時の武士の価値観から、 死を持って、主君への忠誠を示すことが、 美徳とされていたとのこと。 |
西暦 | 元号 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|---|
1567年 | 永禄10年 | 0 |
「出羽国米沢城」にて、 伊達氏16代当主「伊達輝宗」の長男として誕生。 |
1577年 | 天正5年 | 11歳 |
元服し、 「政宗」という名は、9世「大膳大夫政宗」の名にちなむ。 |
1579年 | 天正7年 | 13歳 | 三春城主「田村清顕」の息女「愛姫」と婚姻。 |
1584年 | 天正12年 | 18歳 | 伊達家を家督相続 |
1585年 | 天正13年 | 19歳 |
父「輝宗」が「畠山義継」に殺される。 反撃にでて「二本松城」を収めた。 その後、「佐竹」「蘆名」「岩城」「石川」「白河」らの連合軍に「仙道人取橋の戦い」で勝利。 |
1589年 | 天正17年 | 23歳 |
宿敵「蘆名氏」を磐梯山麓の摺上原にて破り、「会津」を略取し、「黒川城」に入る。 「会津4郡」「仙道7郡」をあわせ、最大の領土を得る。 南奥における「制覇」をほぼ実現。 |
1590年 | 天正18年 | 24歳 |
「豊臣秀吉」の「小田原征伐」に遅参。 弁明したが「会津」「仙道南部」を没収される。 「黒川城」から「米沢城」に移る。 同年に、「葛西大崎一揆」が発生したが鎮圧。 |
1591年 | 天正19年 | 25歳 |
「木村吉清」「清久」父子にかわり「旧葛西大崎領」を与えらる。 「仙道長井」の本領を没収され、居城も岩出山に移る。 |
1592年 | 文禄元年・文禄2年 | 26歳 | 「朝鮮」に出兵する。 |
1595年 | 文禄4年 | 29歳 | 「関白秀次事件」に連座した疑いで詰問されるが、許される。 |
1597年 | 慶長2年 | 31歳 | 「従4位下」「右近衛権少将」に任じられました。 |
1600年 | 慶長5年 | 34歳 |
「関が原の戦い」で、「家康方」東軍に味方し、「上杉家」に攻撃を目論む。 「関が原の戦い」直前に家康よりいわゆる「百万石のお墨付き状」を送られたが、 「和賀一揆」などのことが理由で反古にされる。 「刈田郡」と「加封」「近江」に「5千石」、「常陸」に「1万石」の加増。 |
1601年 | 慶長6年 | 35歳 |
正月より「仙台城」の建設を始め、 同年4月に、建築途中の仙台城へ移る。 |
1605年 | 慶長10年・12年 | 39歳 | 領内を検地。「塩釜神社」の「社殿」を修造、「大崎八幡宮」「陸奥国分寺薬師堂」を造営。 |
1608年 | 慶長13年 | 42歳 | 「松平」姓を許され、「陸奥守」に任じられる。 |
1609年 | 慶長14年 | 43歳 | 松島の「瑞巌寺」の上棟式。 |
1611年 | 慶長16年 | 45歳 | スペイン国王「フェリペ3世」の使節「ルイス・ソテロ」「セバスティアン・ビスカイノ」が仙台に来訪。 |
1613年 | 慶長18年 | 47歳 | 「支倉長経」を「ローマ法王」「スペイン国王」のもとに遣わす。 |
1614年 | 慶長19年 | 48歳 |
大阪冬の陣。 大坂の役に出陣。 冬の陣後、長男「秀宗」が、「宇和島10万石」を賜る。 |
1615年 | 元和元年 | 49歳 |
・大阪夏の陣 「夏の陣」では、敵将「後藤又兵衛」らを討つ「大功」を収める。 |
1621年 | 元和6年 | 55歳 | 「ローマ法王」「スペイン国王」のもとに遣わした「支倉長経」らが帰国。 |
1626年 | 寛永3年 | 60歳 | 「従3位」「権中納言」を賜る。 |
1629年 | 寛永5年 | 63歳 | 「仙台城」の東南4.5㎞の地に隠居所とも称される「若林屋敷」が完成し、移り住む。 |
1634年 | 寛永11年 | 68歳 |
「近江」に「5000石」が加増され、 合計で「62万石」となる。 |
1636年 | 寛永13年5月24日 | 70歳 | 江戸の「桜田屋敷」にて逝去。 |
感仙殿(二代忠宗公廟) |
「感仙殿」は、 二代藩主「伊達忠宗公(1599~1658)」の霊廟。 「1664年寛文4年」に、四代藩主「伊達綱村」により建立された。 現在の建物は、 明治初年からの「廃仏毀釈」により、 本殿以外は取り壊され、 昭和20年の戦災で残された本殿も焼失。 昭和60年に、 「瑞鳳殿」に続いて再建された。 | |
善応殿(三代綱宗公廟) |
三代藩主「伊達綱宗公(1640-1711)」の「霊廟」。 「1716年(享保元年」に、五代「吉村公」により竣工される。 簡素な装飾だが、 落ち着いた佇まい。 現在の建物は、昭和60年に「感仙殿」とともに再建されたもの。 | |
妙雲界廟 (みょううんかいびょう) |
「感仙殿」北側にある 九代藩主「周宗公」と 十一代藩主「斉義公夫妻」 の墓所「妙雲界廟」 |