原文 | 意味 |
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この世に客に来たと思えば何の苦もなし。 |
この世に、 お客様として来たと思っていれば、 何事も不自由・不便があっても 仕方がないと思えて、 心にそれほどストレスを感じることがない。 |
五常訓 ・仁に過れば弱くなる。 ・義に過れば固くなる。 ・礼に過れば諂(へつら)いとなる。 ・智に過れば嘘をつく。 ・信に過れば損をする。 |
五常訓の意味 ・優しいだけじゃ人は付いてこない ・義を重視し、正しいばかりではつまらなくなる ・礼儀によって合わせてばかりじゃお世辞になる ・知恵に頼りすぎると嘘となることもある ・信じているばかりでは、損害をこうむることもある |
氣長く心穏かにして、 萬(よろず)に儉約を用て金銭を備ふべし。 儉約の仕方は不自由を忍ぶにあり。 この世に客に來たと思へば何の苦もなし。 朝夕の食事うまからずともほめて食ふべし。 元來客の身なれば好嫌は申されまじ。 今日の行をおくり、 子孫兄弟によく挨拶をして、 娑婆の御暇申すがよし。 |
人生は、 色々あるが、 気分に左右されず、心を穏やかにして、 いざというときに備え、 倹約しながら金銭を蓄えておくのが良い。 倹約は、不自由を我慢することだ。 この世に、 お客様として来ていると考えれば、 不自由に感じることが当然だと思え、 それほど苦労に感じなくなる。 朝晩の食事は、美味しくなくても、 褒めて食べる方が楽しい時間が増える。 もともと、お客として食べていれば、 好き嫌いは言えないものだ。 今日を大切にし、 身内の者たちと、 よく会話をし、大切にし、 この世に別れを告げるのが良い人生だろう。 |
まともでない人間の相手をまともにすることはない。 |
まともでない考えの人を相手にすると、 人生を無駄にしてしまう。 考えのある人を相手にした方が人生が充実する。 |
大事の義は人に談合せず、一心に究めたるがよし。 | 大事なことは他人に任せず、相談せず、自分で決めた方が良い |
物事、小事より大事は発するものなり。 油断すべからず。 |
大事は、小さなことから始まる。 小さな事を軽く見てはならない。 |
戦場を駆け回っていた私が、畳の上で死ぬとは思っていなかった。 |
人生は、自分が思っていた通りになるとは限らない。 そういうことを楽しむ余裕も必要だ。 |
馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなす事である。 |
ご馳走とは、旬の食材をさりげなく、 主人が調理をして、提供することであり、 客をもてなすこととなる。 |
仮初にも人に振舞候は、料理第一の事なり。 何にても、其の主の勝手に入らずば、悪しき料理など出して、 差当り虫気などあらば、気遣い千万ならん。 |
人に振る舞う時には、 料理が大切で、主人自ら料理をし、 提供するのが良い。 他人が作った料理で、客人の具合が悪くしたら、 気遣いのかけらもないことになる。 |
西暦 | 元号 | 年齢 | 出来事 |
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1567年 | 永禄10年 | 0 |
「出羽国米沢城」にて、 伊達氏16代当主「伊達輝宗」の長男として誕生。 |
1577年 | 天正5年 | 11歳 |
元服し、 「政宗」という名は、9世「大膳大夫政宗」の名にちなむ。 |
1579年 | 天正7年 | 13歳 | 三春城主「田村清顕」の息女「愛姫」と婚姻。 |
1584年 | 天正12年 | 18歳 | 伊達家を家督相続 |
1585年 | 天正13年 | 19歳 |
父「輝宗」が「畠山義継」に殺される。 反撃にでて「二本松城」を収めた。 その後、「佐竹」「蘆名」「岩城」「石川」「白河」らの連合軍に「仙道人取橋の戦い」で勝利。 |
1589年 | 天正17年 | 23歳 |
宿敵「蘆名氏」を磐梯山麓の摺上原にて破り、「会津」を略取し、「黒川城」に入る。 「会津4郡」「仙道7郡」をあわせ、最大の領土を得る。 南奥における「制覇」をほぼ実現。 |
1590年 | 天正18年 | 24歳 |
「豊臣秀吉」の「小田原征伐」に遅参。 弁明したが「会津」「仙道南部」を没収される。 「黒川城」から「米沢城」に移る。 同年に、「葛西大崎一揆」が発生したが鎮圧。 |
1591年 | 天正19年 | 25歳 |
「木村吉清」「清久」父子にかわり「旧葛西大崎領」を与えらる。 「仙道長井」の本領を没収され、居城も岩出山に移る。 |
1592年 | 文禄元年・文禄2年 | 26歳 | 「朝鮮」に出兵する。 |
1595年 | 文禄4年 | 29歳 | 「関白秀次事件」に連座した疑いで詰問されるが、許される。 |
1597年 | 慶長2年 | 31歳 | 「従4位下」「右近衛権少将」に任じられました。 |
1600年 | 慶長5年 | 34歳 |
「関が原の戦い」で、「家康方」東軍に味方し、「上杉家」に攻撃を目論む。 「関が原の戦い」直前に家康よりいわゆる「百万石のお墨付き状」を送られたが、 「和賀一揆」などのことが理由で反古にされる。 「刈田郡」と「加封」「近江」に「5千石」、「常陸」に「1万石」の加増。 |
1601年 | 慶長6年 | 35歳 |
正月より「仙台城」の建設を始め、 同年4月に、建築途中の仙台城へ移る。 |
1605年 | 慶長10年・12年 | 39歳 | 領内を検地。「塩釜神社」の「社殿」を修造、「大崎八幡宮」「陸奥国分寺薬師堂」を造営。 |
1608年 | 慶長13年 | 42歳 | 「松平」姓を許され、「陸奥守」に任じられる。 |
1609年 | 慶長14年 | 43歳 | 松島の「瑞巌寺」の上棟式。 |
1611年 | 慶長16年 | 45歳 | スペイン国王「フェリペ3世」の使節「ルイス・ソテロ」「セバスティアン・ビスカイノ」が仙台に来訪。 |
1613年 | 慶長18年 | 47歳 | 「支倉長経」を「ローマ法王」「スペイン国王」のもとに遣わす。 |
1614年 | 慶長19年 | 48歳 |
大阪冬の陣。 大坂の役に出陣。 冬の陣後、長男「秀宗」が、「宇和島10万石」を賜る。 |
1615年 | 元和元年 | 49歳 |
・大阪夏の陣 「夏の陣」では、敵将「後藤又兵衛」らを討つ「大功」を収める。 |
1621年 | 元和6年 | 55歳 | 「ローマ法王」「スペイン国王」のもとに遣わした「支倉長経」らが帰国。 |
1626年 | 寛永3年 | 60歳 | 「従3位」「権中納言」を賜る。 |
1629年 | 寛永5年 | 63歳 | 「仙台城」の東南4.5㎞の地に隠居所とも称される「若林屋敷」が完成し、移り住む。 |
1634年 | 寛永11年 | 68歳 |
「近江」に「5000石」が加増され、 合計で「62万石」となる。 |
1636年 | 寛永13年5月24日 | 70歳 | 江戸の「桜田屋敷」にて逝去。 |