旅メモ
旅メモ【日本編】





【宮城県】「仙台城(青葉城)」

【宮城県】
「仙台城(青葉城)」




「仙台城(青葉城)」をまとめています。


「仙台城(青葉城)」は、
仙台藩初代藩主「伊達政宗公」が建てた「居城」。

「独眼竜 政宗」として人気の「戦国武将」。
生まれるのが、「30年ほど」早ければ、
「織田信長」「豊臣秀吉」「徳川家康」と共に、
今と違った歴史を作っていたかもしれない
優れた武将として知られている。


今の東北最大の経済都市「仙台」の基礎を作ったのも、
「伊達政宗公」と言われている。



詳しくは、
下記をご参照ください。



INDEX


「仙台城」は「愛犬同伴OK」
「仙台城(青葉城)」とは
「仙台城(青葉城)」にある「宮城県護国神社」とは


「仙台城」の「見どころ」
「仙台城」の「城郭」は残っていない
「伊達政宗」も気に入っていた「風景」は素晴らしい
「仙台城(青葉城)」でも御当地名物「牛タン」が食べれる
「仙台城」にある「伊達政宗像」はカッコいい
「伊達政宗公グッズ」がたくさん販売されている「青葉城本丸会館売店」
「伊達政宗公」が残した「名言」


「仙台城」のある場所
「瑞鳳殿」とは
「伊達政宗公」とは
「仙台城」と周辺の「旅スポット」
「仙台城」へのアクセス
「仙台城」の「駐車場」

Gallery

「仙台城」は「愛犬同伴OK」


「仙台城」は「愛犬同伴OK」。
ですが、
「施設内」「飲食店」などは、
「愛犬同伴NG」となっていました。

敷地内にある
「宮城県護国神社」は、
「愛犬同伴OK」で一緒に参拝できましたが、
「キャリーバッグ」「スリング」を使用しての参拝です。


粗相をしないように、
「駐車場」の周辺で散歩をしてから、
見学に行くのが良い方法。


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「仙台城(青葉城)」とは



「仙台城」は、
通称「青葉城」とも呼ばれていて、
仙台平野を見下ろす「青葉山」に築かれた
「伊達政宗公」が建設した城。
「仙台城」を建設に、「伊達政宗公」は、
「仙台城」と、その城下町に、
永遠に、平和で安らかに栄えるように、
という祈りを込めていたと言われている。

「1601年(慶長6年)」に、
政宗公が架けた「仙台橋」の「擬宝珠(ぎぼし)」の銘文に、
「仙台橋 仙人橋下 河水千年 民安国泰 孰与尭天」と
あるそう。


「1601年(慶長6年)」に、
本丸の建設が開始され、
建築途中の「1601年(慶長6年)の4月」には、
「伊達政宗公」が、「仙台城」に入城されたとのこと。

「仙台城」には、
「天守閣」が建設されませんでしたが、
「徳川家康公」へ「敵意」がないことを示したと言われている。

「天守閣」がない代わりに、
「千畳敷」という、
凄く広い「大広間」が建設されていた。
「千畳敷」の内部は、
桃山様式の豪華な装飾が施されていたそう。


他にも、
「本丸」には、
京都にある「清水の舞台」に似た、
崖にせり出すように作られた「懸造り(かけつくり)」や、
「艮櫓(うしとらやぐら)」「巽櫓(たつみやぐら)」など
合計「5つの櫓」が建設され、
城下からの眺めは、
とても迫力と威厳のある「城」だったと言われている。


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「仙台城(青葉城)」にある「宮城県護国神社」とは



「仙台城(青葉城)」にある
「宮城県護国神社」は、
「仙台城本丸跡」に建つ「神社」。
「ひょうたん厄除け」が知られていて、
社殿の前には、
息を吹き込んで蓋をすると、
災いを払ってくれるという
「厄除けのひょうたん」が、
吊るせるようになっていた。


「宮城県護国神社」は、
明治維新以後の「戦死」「戦没者」の
「御霊」の「約5.6万柱」を祀るために、
「明治37年」に、
「仙台城(青葉城)」の「本丸城址」に、
「招魂社」として創建された。

「宮城県護国神社」の「本殿」は、
三重県の「伊勢神宮」から、
東北地方に、初めて下げ渡された貴重な「社殿」。
「昭和30年」に、
現在の場所に移築された。


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「仙台城」の「見どころ」



訪れてみると、
「仙台城」の「見どころ」が見えてきました。

「仙台城」で見ておく場所は、
・仙台市内を一望できる風景
・伊達政宗公の騎馬像
・「見聞館」で見れる仙台城の歴史と成り立ち
・伊達政宗グッズがたくさんの「青葉城本丸会館売店」
・大きくて、迫力のある「大鷲の銅像」
・仙台名物「牛タン」が食べれる「伊達の牛たん本舗 青葉城店」
などがある。
「仙台市内」を一望できる「風景」と、
格好良い「伊達政宗公の騎馬像」は、
個人的にもお気に入り。


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「仙台城」の「城郭」は残っていない



「仙台城」の「城郭」。
お城の建物部分は、
まったく残っていなかった。
「本丸大広間」の跡地に痕跡があって、
それが残っているだけになっていた。


もともと、
江戸時代に入り、
「徳川幕府」に配慮し、
城としての建物は、
「戦」をするための「城」ではなく、
天守のない装飾が豪華な平屋の建物を作ったとのこと。

京都の「二条城」のような城だったとのこと。


「天守」は
「戦」をするために
考えられた「城」だったため、
安易に作ると、
敵意があると判断されていた上に、
江戸時代では、
政権を安定化させるために、
城の「築城」「改修」をするには、
「江戸幕府」の許可が必要だったらしい。



「仙台城」の城郭がないのは、
「1873年(明治6年)」の「廃城令」によって、
「本丸」が取り壊しとなり、
「明治15年」には、
「二の丸」が火事により消失。
「大手門」「脇櫓(わきやぐら)」「三の丸の巽門(たつみもん)」は、
「1945年7月10日」の「仙台空襲」によって焼失。

その結果、
「仙台城」の城郭は、
すべて亡くなってしまった。



現在、
「日本最大級の城門」と言われた「仙台城の正門」は、
復元計画が始まっているそう。
まだ、
詳細は決まっていないが、
2036年以降に完成する復元計画となっているそうです。


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「伊達政宗」も気に入っていた「風景」は素晴らしい



「仙台城」の立地は、
色々な良い点があるそうだが、
「伊達政宗」は、
仙台城から見る、
仙台の街並みがとても気に入っていたそう。

現在、
「櫓」もないので、
仙台の街を一望できるようになっている。


天気が良いと、
かなり遠くまで見渡せるので、
とても良い風景。


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「仙台城(青葉城)」でも御当地名物「牛タン」が食べれる



写真を取り忘れてのですが、
「仙台城」には、
仙台の御当地名物「牛タン」が食べれる
「伊達の牛たん本舗 青葉城店」がある。

Address : 〒980-0862 宮城県仙台市青葉区川内1


お昼の12時ちょっと前に訪れましたが、
既に満席でした。
美味しいお店なのかも。。。。。
と思いつつ、
時間がないので、
次のスポットへ。

次回は、
ぜひ食べてみたい。


ちなみに、
「愛犬同伴NG」です。
暑い季節には、
車内のお留守番は出来ないので、
季節を選ぶ必要がある。


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「仙台城」にある「伊達政宗像」はカッコいい



「仙台城」には、
「伊達政宗公」の大きな「騎馬像」がある。

現在の「伊達政宗公の騎馬像」は、「2代目」。
初代は、
「1935年」に仙台城跡地に設置されたが、
1944年に、戦時中の「金属供出」のために、
「台座のレリーフ」とともに、
「騎馬像」は供出された。
戦後に、
現在の「2代目」となる騎馬像が、
同じ型から鋳造されて制作され、
「1964年」に完成し、仙台城に設置された。
それが、現在の「伊達政宗公の騎馬像」となっている。

しかし、
戦後に、初代の「伊達政宗公の騎馬像」が、
胸から上の部分のみ発見され、
現在は、
「仙台市博物館 館庭」に展示されている。



「伊達政宗公の騎馬像」が建立されたのは、
「政宗没後300年祭(1935年)」の記念事業で、
「宮城県青年団」などが発案したことがきっかけ。
宮城県柴田町出身の彫刻家「小室達(とおる)(1899年~1953年)」が選ばれ、
制作に「2年」の歳月をかけて、
「1935年」に完成し、除幕された。


「伊達政宗公の騎馬像」は、
「伊達政宗」が「37歳」のときに、
拠点を「仙台城」に移し、初めて入城した時の姿
をイメージしたものと言われているそう。


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「伊達政宗公グッズ」がたくさん販売されている「青葉城本丸会館売店」



「仙台城」は、
「伊達政宗」が建立した「お城」であり、
「居城」にもしていた場所。


とてもゆかりのある場所なので、
「青葉城本丸会館」の「売店」には、
「伊達政宗公」のグッズがとても多かった。


「青葉城本丸会館の売店」でしか
販売されていなそうなグッズも多かった。

海外の人のお土産探しに、
とても好まれそうなショップ。


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「伊達政宗公」が残した「名言」



「伊達政宗公」は、
自身の思いを言葉として、
残していたと言われており、
「伊達政宗公」の
「五常訓(「貞山政宗公遺訓」「仙台黄門政宗卿遺訓」)」は、
よく知られている。

しかし、
「伊達政宗公」自身が残したものではない
という説もあるそうだが、
内容は、
とても興味深く、
現代でも考えの指針として参考になる。



「伊達政宗公」が残した「言葉」と「意味」

原文意味
この世に客に来たと思えば何の苦もなし。 この世に、
お客様として来たと思っていれば、
何事も不自由・不便があっても
仕方がないと思えて、
心にそれほどストレスを感じることがない。
五常訓
・仁に過れば弱くなる。
・義に過れば固くなる。
・礼に過れば諂(へつら)いとなる。
・智に過れば嘘をつく。
・信に過れば損をする。
五常訓の意味
・優しいだけじゃ人は付いてこない
・義を重視し、正しいばかりではつまらなくなる
・礼儀によって合わせてばかりじゃお世辞になる
・知恵に頼りすぎると嘘となることもある
・信じているばかりでは、損害をこうむることもある
氣長く心穏かにして、
萬(よろず)に儉約を用て金銭を備ふべし。
儉約の仕方は不自由を忍ぶにあり。
この世に客に來たと思へば何の苦もなし。
朝夕の食事うまからずともほめて食ふべし。
元來客の身なれば好嫌は申されまじ。
今日の行をおくり、
子孫兄弟によく挨拶をして、
娑婆の御暇申すがよし。
人生は、
色々あるが、
気分に左右されず、心を穏やかにして、
いざというときに備え、
倹約しながら金銭を蓄えておくのが良い。
倹約は、不自由を我慢することだ。
この世に、
お客様として来ていると考えれば、
不自由に感じることが当然だと思え、
それほど苦労に感じなくなる。
朝晩の食事は、美味しくなくても、
褒めて食べる方が楽しい時間が増える。
もともと、お客として食べていれば、
好き嫌いは言えないものだ。
今日を大切にし、
身内の者たちと、
よく会話をし、大切にし、
この世に別れを告げるのが良い人生だろう。
まともでない人間の相手をまともにすることはない。 まともでない考えの人を相手にすると、
人生を無駄にしてしまう。
考えのある人を相手にした方が人生が充実する。
大事の義は人に談合せず、一心に究めたるがよし。 大事なことは他人に任せず、相談せず、自分で決めた方が良い
物事、小事より大事は発するものなり。
油断すべからず。
大事は、小さなことから始まる。
小さな事を軽く見てはならない。
戦場を駆け回っていた私が、畳の上で死ぬとは思っていなかった。 人生は、自分が思っていた通りになるとは限らない。
そういうことを楽しむ余裕も必要だ。
馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなす事である。 ご馳走とは、旬の食材をさりげなく、
主人が調理をして、提供することであり、
客をもてなすこととなる。
仮初にも人に振舞候は、料理第一の事なり。
何にても、其の主の勝手に入らずば、悪しき料理など出して、
差当り虫気などあらば、気遣い千万ならん。
人に振る舞う時には、
料理が大切で、主人自ら料理をし、
提供するのが良い。
他人が作った料理で、客人の具合が悪くしたら、
気遣いのかけらもないことになる。


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「仙台城」のある場所



「仙台城」のある今の「仙台」は、
古くから「奥州街道」が通り、
「海」に面していて、
東に平野が広がっている。


勢力を強め、
「奥州」を制覇していた
「伊達政宗公」が、
今の「仙台」がある場所に、
将来の発展が期待できると判断し、
自身が住む「居城」の場所として、
場所を定めたと言われている。


そして、
永遠に、平和で安らかに栄えるように、
という思いを込め、
「仙台城」と「城下町」を建設したそう。

現在の「仙台」の発展を見据えていたかのような、
「伊達政宗公」の判断は、
とても優れていたことになる。


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戦国の時代を統一した「徳川家康」との関係


「織田信長」「豊臣秀吉」が死去し、
戦国の時代を統一した「徳川家康」は、
東軍「徳川方」と西軍「石田三成方」の雌雄を決する
天下分け目の「関が原の戦い」で、
豊臣家家臣「石田三成」の連合軍に打ち勝つために、
全国の武将に、多数の手紙を送り、
援軍となるように、色々な約束をしていた。


「伊達政宗公」とも、
「関が原の戦い」で、
「徳川家康」への協力を誓った見返りとして、
「豊臣秀吉」から与えられていた「所領58万石」に加え、
元々、「伊達家」の領地だった「上杉領」の
「約50万石(刈田・伊達・信夫・二本松・塩松・田村・永井の7郡)」も
与えるという「褒賞」を約束していた。
その約束は、
今では、「百万石のお墨付き状」として知られている。


「徳川家康」が、
「関ヶ原の戦い」を勝利した後、
「百万石のお墨付き状」は反古にされ、
「仙台城」は、領地の真ん中に位置することはできなかった。

実際に、追加で与えられたのは、
「刈田郡」と「近江」の飛び地の、
合わせて「2万5千石」。

「関ヶ原の戦い」が、
わずか半日で終了したことで、
「家康」との約束した行動ができなかったことなどが、
「百万石のお墨付き状」が実行されなかった理由。


だが、
江戸時代になり、
「仙台」は、
豊かな土壌により、
農作物が豊かで、
江戸で売ることで、
実質的な「100万石」となった。


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「瑞鳳殿」とは


「瑞鳳殿」は、
仙台藩祖「伊達政宗公」が眠る「霊屋(お墓)」。


「1636年(寛永13年)」に、
「70歳」で逝去した仙台藩祖「伊達政宗」のお墓である「霊廟」。
「伊達政宗」自身の遺命により、
翌年に、「仙台城」にほど近い「経ケ峯」に造営された。


「瑞鳳殿」は、
「本殿」「拝殿」「御供所」「涅槃門」で構成されており、
派手な衣装を多用していた
「伊達もの」という派手な衣装の人の名称にもなった
「伊達政宗」らしく、
豪華絢爛な「霊廟」となっている。
「1931年(昭和6年)」に、「国宝」に指定された。



残念なことに、
「1945年(昭和20年)」に、戦火により、
建設当時の霊廟は消失してしまった。

現在の「霊廟」は、
「1979年(昭和54年)」に再建されたもの。
「2001年(平成13年)」には、
「仙台開府四百年」を記念して「大改修工事」が行われた。

「霊廟」の「柱」には、「彫刻獅子頭」。
屋根には、「竜頭瓦」を復元し、
創建当時の姿が復元している。


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「伊達政宗公」とは



戦国武将として知られる
「伊達政宗公」は、
「伊達家」の「17世当主」であり、
「仙台藩62万石」の「初代藩主」。
「1567年(永禄10年)」に、
「出羽国米沢城」で、
伊達氏16代当主「伊達輝宗」の長男として生まれ、
「1636年(寛永13年)」に逝去。

母は、正室である最上義守の娘「義姫」。
幼名は、「梵天丸」。


「伊達政宗公」は、
幼き頃に、「疱瘡(天然痘)」にかかってしまい、 「右目」の視力を失った。
成長し、
トレードマークにもなり、
その武将としての強さから、
「独眼竜」という名称で呼ばれるようになった。


若き頃から、
戦に戦を重ね、武将としての腕を磨き、
「織田信長」「豊臣秀吉」「徳川家康」を相手に、
機転と度胸のある行動をして、
数ある危機を乗り越えていった。

「伊達政宗」が生涯で遭遇した危機には、

・父を殺害される
・領土周辺での度重なる戦
・豊臣秀吉の「小田原合戦」に遅れた
・「葛西大崎一揆」を先導した疑い
・朝鮮への出兵
・「豊臣秀吉」への謀反の疑い
・「関ケ原の戦い」に乗じた領土拡大の失敗で怒られる
・「大坂夏の陣」での「伊達軍」の損傷
・「徳川家康」への「謀反の疑い」(大久保長安(おおくぼながやす)事件)

などがある。



若き頃の「伊達政宗公」は、
戦国の時代には、
かつての「伊達家」の領土を持つ
「上杉家」との戦に時間を費やし、 領土を取り戻そうとしていた。

「豊臣秀吉」が「53歳」の時、
「伊達政宗」は、「24歳」。
もう少し早く生まれていたら、 今とは違う歴史へと
変えていたかも知れないぐらいの実力者。


戦国時代が終わり、
「徳川家康」が統一した「江戸時代」では、
「伊達政宗公」は、
主に、 ・藩内の農政改革
・文化財の建築
・治水事業
などの、「仙台藩の安定化」に尽力。
今でも、現存するのは、

Address : 〒980-0871 宮城県仙台市青葉区八幡4丁目6−1
「伊達政宗公」が晩年に整備した施設の一つ。
Address : 〒981-0213 宮城県宮城郡松島町松島町内91
「伊達政宗公」が晩年に整備した施設の一つ。

などの施設。
「文化財」として「国宝」にも指定されている。

藩の経営と同時に、
「伊達政宗公」は、 徳川幕府の重鎮として、家康の死後も大きな影響力をもっていた。
幾度となく、「謀反」を疑われることもあったそうだが、
「謀反」をすることなく、
「徳川政権」の安定化に尽力したと言われている。


「1636年(寛永13年)」に、
「伊達政宗公」は、逝去される。
「正宗山瑞鳳寺(現・仙台市青葉区)」に葬られている。



「伊達政宗公」の生涯

西暦元号年齢出来事
1567年永禄10年0 「出羽国米沢城」にて、
伊達氏16代当主「伊達輝宗」の長男として誕生。
1577年天正5年11歳 元服し、
「政宗」という名は、9世「大膳大夫政宗」の名にちなむ。
1579年天正7年13歳三春城主「田村清顕」の息女「愛姫」と婚姻。
1584年天正12年18歳伊達家を家督相続
1585年天正13年19歳 父「輝宗」が「畠山義継」に殺される。
反撃にでて「二本松城」を収めた。 その後、「佐竹」「蘆名」「岩城」「石川」「白河」らの連合軍に「仙道人取橋の戦い」で勝利。
1589年天正17年23歳 宿敵「蘆名氏」を磐梯山麓の摺上原にて破り、「会津」を略取し、「黒川城」に入る。
「会津4郡」「仙道7郡」をあわせ、最大の領土を得る。
南奥における「制覇」をほぼ実現。
1590年天正18年24歳 「豊臣秀吉」の「小田原征伐」に遅参。
弁明したが「会津」「仙道南部」を没収される。
「黒川城」から「米沢城」に移る。
同年に、「葛西大崎一揆」が発生したが鎮圧。
1591年天正19年25歳 「木村吉清」「清久」父子にかわり「旧葛西大崎領」を与えらる。
「仙道長井」の本領を没収され、居城も岩出山に移る。
1592年文禄元年・文禄2年26歳「朝鮮」に出兵する。
1595年文禄4年29歳「関白秀次事件」に連座した疑いで詰問されるが、許される。
1597年慶長2年31歳「従4位下」「右近衛権少将」に任じられました。
1600年慶長5年34歳 「関が原の戦い」で、「家康方」東軍に味方し、「上杉家」に攻撃を目論む。
「関が原の戦い」直前に家康よりいわゆる「百万石のお墨付き状」を送られたが、
「和賀一揆」などのことが理由で反古にされる。
「刈田郡」と「加封」「近江」に「5千石」、「常陸」に「1万石」の加増。
1601年慶長6年35歳 正月より「仙台城」の建設を始め、
同年4月に、建築途中の仙台城へ移る。
1605年慶長10年・12年39歳領内を検地。「塩釜神社」の「社殿」を修造、「大崎八幡宮」「陸奥国分寺薬師堂」を造営。
1608年慶長13年42歳「松平」姓を許され、「陸奥守」に任じられる。
1609年慶長14年43歳松島の「瑞巌寺」の上棟式。
1611年慶長16年45歳スペイン国王「フェリペ3世」の使節「ルイス・ソテロ」「セバスティアン・ビスカイノ」が仙台に来訪。
1613年慶長18年47歳「支倉長経」を「ローマ法王」「スペイン国王」のもとに遣わす。
1614年慶長19年48歳 大阪冬の陣。
大坂の役に出陣。
冬の陣後、長男「秀宗」が、「宇和島10万石」を賜る。
1615年元和元年49歳 ・大阪夏の陣
「夏の陣」では、敵将「後藤又兵衛」らを討つ「大功」を収める。
1621年元和6年55歳「ローマ法王」「スペイン国王」のもとに遣わした「支倉長経」らが帰国。
1626年寛永3年60歳「従3位」「権中納言」を賜る。
1629年寛永5年63歳「仙台城」の東南4.5㎞の地に隠居所とも称される「若林屋敷」が完成し、移り住む。
1634年寛永11年68歳 「近江」に「5000石」が加増され、
合計で「62万石」となる。
1636年寛永13年5月24日70歳江戸の「桜田屋敷」にて逝去。



「豊臣氏滅亡」以後から「政宗公」が逝去するまでに整備した施設

Address : 〒980-0871 宮城県仙台市青葉区八幡4丁目6−1
「伊達政宗公」が晩年に整備した施設の一つ。
Address : 〒981-0213 宮城県宮城郡松島町松島町内91
「伊達政宗公」が晩年に整備した施設の一つ。
Address : 〒985-8510 宮城県塩竈市一森山1−1
「伊達政宗公」が晩年に整備した施設の一つ。
Address : 〒984-0047 宮城県仙台市若林区木ノ下3丁目8−1
「伊達政宗公」が晩年に整備した施設の一つ。


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「仙台城」と周辺の「旅スポット」


Address : 〒980-0862 宮城県仙台市青葉区川内1
Address : 〒980-0814 宮城県仙台市青葉区霊屋下23−2
Address : 〒980-0862 宮城県仙台市青葉区川内1
Address : 〒980-0862 宮城県仙台市青葉区川内26
Address : 〒980-0862 宮城県仙台市青葉区川内
Address : 〒980-0871 宮城県仙台市青葉区八幡4丁目6−1
「伊達政宗公」が晩年に整備した施設の一つ。
Address : 〒981-0213 宮城県宮城郡松島町松島町内91
「伊達政宗公」が晩年に整備した施設の一つ。



Address : 〒981-0908 宮城県仙台市青葉区東照宮1丁目6−1
Address : 〒981-0916 宮城県仙台市青葉区青葉町7−1
「1874年(明治7年)」に建立された「伊達政宗公」を祀る神社。
Address : 〒981-0931 宮城県仙台市青葉区北山1丁目14−1


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「仙台城」へのアクセス

「仙台城」の「駐車場」



「仙台城」の「駐車場」は、
「仙台城」のあった場所のところまで、
車で上がれるようになっており、
城跡の隣に駐車場「伊達駐車場」がある。


便利なので、
混雑してなければ、
「伊達駐車場」を利用するのが良さそう。

警備員の方がいるので、
案内に従って駐車場に移動するようになっていました。
混雑していなければ、
通常、城跡の隣に駐車場「伊達駐車場」に
案内されるようです。



「青葉山公園」の大きな駐車場もあり、
「青葉山(仙台城)」のふもとにある。



Address : 〒980-0862 宮城県仙台市青葉区川内1
「仙台城」の敷地内にある駐車場。
Address : 〒980-0862 宮城県仙台市青葉区川内追廻無番地
「青葉山」のふもとにある「青葉山公園」の駐車場。


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