*Image is うな重
「埼玉県川越市」にある「喜多院」は、
「天台宗」の寺院で、「厄除け」の御利益があることで知られている。
別名「川越大師」とも呼ばれ、広く知られている。
正式には、「星野山無量寿寺喜多院」という。
小江戸「川越」のメインストリートでもある
「蔵造りの町並み(小江戸川越一番街商店街)」からは、
直線距離で「約900m」ほど「南東」にある。
「時の鐘」までは、「約1.5km」ほど歩く距離。
「喜多院」の創建は、
「奈良時代」「平安時代」にまでさかのぼり、
確かな記録があるのは、
「平安時代」の「830年(天長7年)」に、
「淳和天皇」の勅により、
「慈覚大師円仁」によって創建された「勅願所」。
本尊は、「阿弥陀如来」「不動明王」「毘沙門天」などを祀っていた。
その時代は、「喜多院」ではなく「無量寿寺」という名称だった。
現在の「喜多院」という名称になったのは、
「1611年(慶長16年)」に、
「徳川家康公」が「川越」を訪れ、
親しく接見したことにより、
「喜多院」に改められたとのこと。
「喜多院」の「御祭神」は、
「川越大師」という別名で知られる「慈恵大師良源(じえだいしりょうげん)」。
「1月3日」に亡くなったことから、
「元三大師(がんざんだいし)」とも呼ばれる「慈恵大師良源(じえだいしりょうげん)」。
平安時代の立派な僧侶として知られ、
「厄除け」の御利益があるのも、
「慈恵大師良源(じえだいしりょうげん)」の修行のエピソードに起因する。
修行中に「疫病神」に侵されたが、
心を静寂にして、悪いものを外に退ける作法「弾指(だんし)」を行っただけで、
「疫病神」が弾き出され、苦痛が治ったと伝えられている。
以後、
少しの「疫病」の苦しみから、
世の人々の大きな苦痛を救う貯めに尽力した。
その際に、鏡に写った「慈恵大師良源(じえだいしりょうげん)」の姿が、
「鬼」の姿に写り、弟子にその絵を描かせた。
その写し絵が、「喜多院」の「神札」に描かれている姿となっている。
その「御札」を置くところには、「疫病神」「厄」が近づかず、
長く「厄災」から免れるとされた。
それが、現在の「喜多院」の御利益「厄払い」として残っているとのこと。
「厄除け」の御利益となる
「豆大師」のエピソードもある。
江戸時代の「寛永」の年代に、
農家の人が、比叡山横川にある「慈恵大師」の「御堂」「お墓」を参拝した。
帰りに、住まいの周辺に、大雨が降ったが、
見知らぬ「三十人余りの若者」が、
「あぜ道」を作り、水を汲みだしてくれたことで、
自身の畑が無事だった。
「慈恵大師良源(じえだいしりょうげん)」は、「観音さま」の化身であることから、
「観音経」にある「観音さま」は「33の姿」に自在に変身し、
人々を救ってくださることが、現実に起きたとされ、
「厄除け」「厄払い」の御利益があると信仰された。
「33人の大師さま」の姿が書かれた
「豆大師」の「神札」が作られている。
「豆」が「摩滅」と読み替えられ、
「摩滅大師」とも言われる。
「魔」を滅するという意味なので、
「災難除け」「厄除け」の信仰が広くされるようになった。
「喜多院」の「御利益」には、
「厄除け」の他に、
「家内安全」「商売繁盛」「開運」「安産」「学業成就」
などがあるとされている。
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