「大雄山最乗寺」は、
神奈川県南足柄市にある曹洞宗の寺院。
荘厳な雰囲気を持つ修行寺で、
参道の杉林「大雄山のスギ」は、
「かながわ美林50選」にも選出されていて、
長野県長野市戸隠にある「戸隠神社奥社」までの参道に似ています。
「大雄山最乗寺」は、その歴史から、
「道了さん」と呼ばれて親しまれています。
「大雄山最乗寺」を建てるのに貢献した「道了」さん。
師匠の死後、天狗となり、永遠に「大雄山最乗寺」と参拝者を守るといい、山に消え、
以後、「道了」さんは、「大雄山最乗寺」の守り神となったと言われています。
故に、「大雄山最乗寺」は、「道了さん」と親しまれるようになりました。
1394年(応永元年)に、「了庵慧明禅師」という和尚さんに建てられた、
600年以上の歴史を持つ。
「了庵慧明禅師」さんは、鎌倉の「建長寺」でお坊さんになり、
石川県能登半島にある「總持寺」という大きなお寺で、「了庵慧明禅師」になられました。
57歳の時に故郷「小田原」に戻り、生活をしていて、
「大雄山最乗寺」を建てることを決意されたそうです。
「道了さん」と親しまれているのは、
「了庵慧明禅師」の弟子に、山伏の修行などの厳しい修行を行っている「道了」という人がいました。
「道了」は、
師匠「了庵慧明禅師」が、「大雄山最乗寺」を建てると知り、
すぐに相模国足柄に駆けつけたと言います。
山伏の修行により、凄い能力を身に着けた「道了」は、
滋賀県大津市にある「三井寺」から、たった1日で到着したとのこと。
お寺の建設では、総責任者となり、
一人で、500人分の土木作業をこなしていたと言われています。
「道了」さんと親しまれるようになったのは、
師匠の「了庵慧明禅師」が、1411年(応永18年)に、
75歳で亡くなられた翌日に、
「道了」さんは、
役目を終え、天狗となり、永遠にお寺と参拝者を守ることが、
新たな役目と弟子たちに伝え、
天狗へと姿を変え、山の中へと消えていったそうです。
「大雄山最乗寺」は、「天狗」を祀り、
「道了」さんをいつまでも信仰していたので、
親しみを込め、「大雄山最乗寺」を「道了」さんと呼ぶようになったと言います。
「道了」さんは、
修行によって、称号が与えられ、
山伏時代の名前は、「相模坊道了尊者」
お坊さんとしての名前は、「妙覚道了尊者」
「十一面観音菩薩」という仏様に姿を変えて、再度この世に現れてからは、「道了大権現」
明治時代以降、最乗寺の境内にある「御真殿(妙覚宝殿)」に天狗として祀られている名前は、「妙覚道了大薩埵」
という名前で、時代によって呼ばれています。
「天狗」は、
姿・形を持たない「妖怪」と言われています。
強い風や雨が吹き荒れた時などに、
「天狗」様が起こっているなどと言われることがあるのは、
姿・形を持たない「妖怪」ということが前提にありました。
「天狗」を具現化した姿も、
人々に伝わり、
「赤い顔」「高い鼻」「山伏の姿」「脊中に羽」といった特徴の天狗は、「大天狗」と呼ばれ、
「鼻と口がカラスのような口ばし」をしている天狗は、「カラス天狗」と言われています。
実際の天狗の姿なのかはわかりませんが、
「大雄山最乗寺」は、「天狗」様に守られているお寺です。
「大雄山最乗寺」には、
大きな「下駄」があります。
「道了」さんが、山伏時代に修行で、一本歯の高下駄を使っていたのが所以で、
「下駄」が祀られているそうです。
山伏の履物は、「一本歯の高下駄」を使うそうです。
山道では、石や木の根が多く、
下駄の間に挟まらないようにするためともいわれているそうです。
「大雄山最乗寺」は、
・面積:128ヘクタール(東京ドーム27個分)
・杉の木の数:17万本
・一番太い杉の太さ:7m21cm
・一番太い杉の高さ:42m
・石段の数:708段(下乗石~奥の院)
・石塔の数:621基(一番古い塔 382年前(御開山坐禅石の上))
・建物の数:44棟
・門の数:6門(仁王門 ・三門 ・瑠璃門 ・碧落門 ・結界門 ・奥の院参道石段入口)
・天狗さんの数:6体(結界門 ・御真殿 ・奥の院参道石段)
・大黒天の数:2体(瑠璃門回廊 ・三面殿)
などの特徴があります。
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