「大阪城」は、
「1580年(天正8年)」に、
戦国時代末期から存在し、
「石山合戦」の講和直後に火災焼失した
「石山本願寺」の跡地。
「1496年(明応5年)」に、
「浄土真宗」の「蓮如上人」が、
現在の大阪城付近に「坊社」を建てたことから始まり、
後に「大坂石山本願寺」という巨大勢力になっていった。
大寺院となった「大坂石山本願寺」は、
巨大勢力となり、戦国武将「織田信長」との争いとなっていき、
「石山合戦」により、
「織田信長」に負け、
「1580年(天正8年)」に、
「寺院」「寺内町」が「焼失」。
現在、
「大阪城公園」内に、
「石山本願寺推定地」と「蓮如上人袈裟懸けの松」の「碑」が残っている。
「本能寺の変」により、
「織田信長」が死去した後、
「豊臣秀吉」が政権を握ると、
「1583年(天正11年)〜 1598年(慶長3年)」にかけて、
「豊臣秀吉」の築城により、
「初代大阪城」となった立派な「大阪城」が築城され、
現在では、「豊臣大坂城」と呼ばれている。
「1代目」の「大阪城」である。
「太閤はんのお城」と親しみのある呼び名もある。
「豊臣秀吉」が没落後、
「徳川家康」が政権を握り、
「1615年(慶長20年=元和元年)」の「大坂夏の陣」により、
「初代大阪城」の「豊臣大阪城」は落城し、
跡形もなく埋め立てられる。
「豊臣大阪城」の終焉。
「大阪城公園」内には、
「豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地」と
「淀君並殉死者三十二名忠霊塔」の「碑」がある。
「2代目」の「大阪城」は、
「徳川大坂城時代」の「大阪城」。
「徳川大坂城」は、
2代目征夷大将軍「徳川秀忠」により、
「1620年(元和6年)」から「10年」の歳月をかけて、
埋め立てられた「豊臣大坂城」の上に築城された。
現在、
大阪に残っている「大阪城」は、
「天守」を除く、
「天守台」「内堀」「外堀」などは、
「徳川大坂城」を原型としている。
しかし、
「2代目」の「徳川大阪城」は、
「1665年(寛文5年)」に、
「天守」に「落雷」が当たり「焼失」し、
その後、
「城」のない「天守台」だけの時代が続く。
徳川幕府にとって、
「大阪城」は、「西の拠点」だったので、
「本丸」付近にあった「本丸御殿」に住居を置いていたらしい。
その後、
「幕末」の「戊辰戦争」では、
「本丸御殿」の大台所付近から出火し、
翌日までに城の建造物の大半を「焼失」。
明治以後、
「陸軍用地」として使用されていた「大阪城地」は、
「1885年(明治18年)」に、
「和歌山城」の「紀州御殿」の一部を「大阪城本丸」に移築し、
「陸軍庁舎」や「明治天皇の行在所」として使用。
その後「紀州御殿」は、「昭和22年」に「焼失」。
時が流れ、
「3代目」の「大阪城」が、
「昭和の天守閣復興」で復元される。
「1931年(昭和6年)」に、
現在の「天守閣」が復元された。
市民の熱意により、
「鉄骨鉄筋コンクリート」を使用して復元され、
博物館施設として現在に至っている。
この時、
「紀州御殿」の横に「第四師団司令部」も新築したとのこと。
「天守閣復元」に使われた費用は、
「大阪市民」による「浄財・約150万円(現在の約750億円に相当)」。
「第2次世界大戦(太平洋戦争)」においては、
「大坂城」周辺に空襲の損害がありましたが、
「焼失」することはなく、
戦後は「史跡公園」として整備され、
現在に至る。
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